2022/02/21/Mon
女性なのに「女装」?│職業的クロスドレッサー(男役)のジェンダー・アイデンティティの謎と、宝塚歌劇の未来
宝塚用語の七不思議のひとつ「女装」。男役が女物の衣装を身に着けたり、女役を演じることを指します。
ショーやレヴュー作品で大勢の男役さんが女装するシーンがあると「女装祭り」なんて言ったりしますね。
(藤井大介先生や野口幸作先生の作品に多い)
生徒自身もファンも、何の疑いもなく使う「女装」という言葉。
でも、これって不思議じゃないですか?
本来は女性なのに何故?
どうして女装と呼ぶのか?
いつから女装と呼び出したのか?
気になりませんか?
女性なのに「女装」?
ある男役さんは、ご自分が女の装いをすることを「女装」と呼ぶのに、何の違和感もない様子でした。
非公式のリラックスした場での発言でしたので、ほぼ無意識の言葉のチョイスでしょう。
「男装」の麗人が自らの異性装を「女装」と呼ぶのはどういう心理なのでしょう?
「男」役である自分が「女」の装いをするから「女装」?
実際のところ「女装」という言葉を使うのに、さほど深い意味はないと思いますが…
一番の理由は単に「最も通じやすいから」でしょう。
しかし、何気ない意識の奥底にある感覚がどのようなものなのか?
男役スイッチが入った状態での男役の性自認(Gender Identity)の在り処は興味深いですね。
(あくまでも、本名の彼女らの性自認ではなく、職業的な性自認の話)
男役は娘役と対になる舞台上の「役割」にすぎませんが、今の男役さんはステージを下りても“男役を貫くこと”を自らに課しているように見受けられます。
私が宝塚を知った30年前はさほどでもなかった気がしますが…
オフステージの露出が増え、SNSが発達した現在ならではの動きなのか?
ファンの期待に応えるためなのか?
この件を深掘りすると長くなりますので、改めて。
職業的クロスドレッサー(宝塚男役)のジェンダー・アイデンティティの謎
男装の女性が女性装をする。
一周回って本来の姿に戻った状態ですが、彼女らの意識は、そうと認識してはいなさそうです。
“職業的クロスドレッサー”である男役が女性装をするとき、彼女の意識はクロスドレッシングしているのか?
肉体的な性が女性である男役が、女性の装いをすることを自ら「女装」と表現するならば、そのとき彼女の「性自認は男性である」と言えます。
ややこしいですが、男役である彼女が「女装する」と口にするとき、「無意識のクロスドレッシング」とも言うべき状況が生まれるのですね。
しかも、身体の性と心の性が複雑に入り組んだ多重構造のクロスドレッシングです。
なぜならば、男役が自認する「男性」は生物学的な男性ではなく、「男役」という“第三の性”であるからです。
ところでクロスドレッシング(Cross dressing)とは何でしょう?
単に、身体の性と異なる性の衣服を身に着けることを指すのでしょうか?
そうであれば、もはやクロスドレッシングという言葉そのものが過去のものとなる可能性を秘めています。
なぜなら、現代におけるクロスドレッシングの源である「男の着るもの、女の着るもの」という固定概念こそジェンダーバイアスの産物だからです。
男であれ、女であれ、それに当てはまらない性であれ、皆が自分の着たい服を自由に着るようになれば、クロスドレッシングなんて言葉は消えてなくなるのです。
宝塚歌劇の未来、様々な愛の形
もしも遠くない未来、いわゆる“男らしさ、女らしさ”の境界が曖昧になった世界が訪れるとしたら、宝塚歌劇はどうなるのか?
ジェンダーロールが失われ、均質化した世の中に“男の美学、女の美学”は必要とされるのか?
ノスタルジックな芸術として、一部の愛好者だけの楽しみになるのか?
あるいは、柔軟に変化して生き残るか?
宝塚の根本は「美と愛と夢」。
愛には様々なバリエーションがあります。
異性愛、同性愛、無性愛、家族愛、友愛、隣人愛、聖愛…
私が生きているうちに、宝塚の変化を見られるでしょうか?
来年、再来年、5年後、10年後…
この先の宝塚歌劇がどこへ向かうか、楽しみです。